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【竜馬をゆく】長崎街道 西生寺から大里宿の本陣跡まで

【竜馬をゆく】
~ 長崎街道ロングトレイルウォーキング ~

今回から始まる登山口ねっと!のスピンオフ企画「竜馬をゆく」。

大里宿本陣跡(御茶屋跡)の石碑(長崎街道・大里宿)の画像かつて福岡の小倉と長崎を結んだ長崎街道を歩く、ロングトレイルウォーキング旅日記です。
幕末には坂本竜馬など多くの志士達が往復した街道を当時の面影を残しているであろう史跡を巡りながら北九州の小倉から長崎を目指します。

竜馬をゆく、第一回目の今回は、JR小森江駅から大里宿の本陣跡までを歩いてみましょう。

(画像は大里宿本陣跡の石碑)

なお、タイトルの「竜馬をゆく」は・・・

もちろん司馬遼太郎著「竜馬がゆく」のパクリです・・・

長崎街道の起点について
長崎街道の起点は、もともと小倉駅前の常盤橋とされていました。
しかし、1799年に幕府(長崎奉行所)が大里宿(現在の門司駅から小森江駅までの海岸沿い一帯)に番所を置いてからは、大里宿から小倉城下までの街道も長崎街道に含まれることとなりました。
そのため、これ以降は大里宿が長崎街道の起点として認知されるようになります。
このように、長崎街道の起点は時代により常盤橋と大里宿(細かくいうと大里宿の本陣や高札場)に分かれますが、このサイトでは大里宿から小倉城下(常盤橋)までをプロローグとしてレポートし、常盤橋以降をエピソード1、2・・・として順次ご紹介していきたいと思います。

【竜馬をゆく】
西生寺から大里宿の本陣跡まで

(門司往還)

長崎街道を大里宿からスタートする場合、最寄駅となるのはJR鹿児島本線の小森江駅です。

そのため、今回の長崎街道ウォークも小森江駅から歩き始めることにしましょう。

博多駅04:46発の門司港行き(JR鹿児島本線)に乗車し、小森江駅に06:25に到着。

12月なのでご覧のとおり真っ暗です。

JR小森江駅(鹿児島本線)の画像

駅の外側にあるトイレで用を済まし準備完了。

駅前の小森江駅前の信号で右折し、大通りに出て国道3号線を小倉方面に進みます。

JR小森江駅前の国道3号線の画像

300mほど歩くと大里東口の交差点です。ここを右折して踏切を渡りましょう。

国道3号線の大里東口交差点の画像

踏切を渡ったらそのまま道なりに直進。

関門製糖株式会社さんの正門前を通り過ぎ、国道199号線の手前から左折して細い道に入ります。

国道199号線手前の長崎街道入口の画像

ここから先が長崎街道。

夜も白々と明けてきましたね。

長崎街道(大里宿・西生寺前付近)の画像

本来はこれより小森江駅側にも街道が続いているはずなのですが、現在は私有地となっているため歩くことが出来ません。

そのため、現在ではここが長崎街道の「北の端っこ」となります。

長崎街道に入って50mほど歩くと右側に西生寺(さいしょうじ)があります。

西生寺(長崎街道・大里宿)正門前の画像

西生寺は康正二年(1456年)創建の古い寺院ですが、1866年の長州征伐の戦闘で焼失してしまったそうです(現在の本堂は明治16年に再建されたもの)。

江戸時代にはこの地域(企救郡)の踏絵寺(判行寺)とされていたようです。

西生寺の判行寺石碑跡の画像

西生寺の斜め向かい側が大専寺。

弘法大師の銅像らしきものがあるのですが・・・

大専寺(長崎街道・大里宿)の画像

前が保育園の敷地になっており不審者と疑われても面倒なのでここは道から眺めるだけでスルーしました。

大専寺の少し先の右側に「庄屋石原宋祐屋敷跡」の石碑があります。

庄屋石原宋祐屋敷跡の石碑(長崎街道・大里宿)の画像

石原宋祐屋敷跡の先の交差点に長崎街道を示す道標がありました。

長崎街道を示す道標(長崎街道・大里宿)の画像

道は間違っていないようです。

道標に従って古い民家と町工場が混在する平成の長崎街道を進みましょう。

古い民家と町工場の混在する長崎街道(長崎街道・大里宿)の画像

さっきの交差点から少し歩いた右側の山崎鉄工株式会社さんの横には「御番所跡」の石碑がありました。

大里宿の御番所跡の石碑(長崎街道・大里宿)の画像

その斜め前に本陣跡(お茶屋)跡の石柱を発見。

大里宿本陣跡(御茶屋跡)の石碑(長崎街道・大里宿)の画像

この本陣跡(御茶屋跡)が大里宿の中心地となります。

長くなったので今回はここまで。

続きはこちらでどうぞ≫【竜馬をゆく】長崎街道 大里宿の本陣跡から長崎番所跡まで

街道まっぷ
今回歩いた道順はこんな感じです。

 歩行時間は若干道に迷ったりしたので30分程度でした。

街道ぷっ知識
本陣(趾)って何?
大里宿本陣跡(御茶屋跡)の石碑(長崎街道・大里宿)の画像

参勤交代などの際、大名や旗本など身分の高い人が利用する宿泊所(御茶屋)が「本陣」と呼ばれていました。
勅使や公家なども本陣に宿泊していたようです。
「本陣」は家臣などが宿泊する「脇本陣」や一般庶民が利用する「旅籠屋(下宿)」と区別されます。
本陣と脇本陣には門・玄関・書院を設けることが出来ますが、旅籠屋にそれが認められたのは明治に入ってからでした(参考文献:長崎街道 1 大里・小倉と筑前六宿[図書出版のぶ工房発行])。

アクセス
大里宿へのアクセス方法
大里宿へのアクセス方法はこちらの記事を参考にしてください。
【竜馬をゆく】長崎街道の大里宿にアクセスする方法