大河ドラマで人気沸騰中の草刈正雄じゃなくて真田昌幸。
その居城として知られるのが、信州の上田城です。
上田城は関ヶ原の合戦の際、城主である草刈正雄じゃなくて昌幸の巧みな籠城戦によって中山道を上る徳川の精鋭(秀忠軍)およそ3万余を散々に打ち負かしたことで全国に名を知られることになった難攻不落の名城ですが、関ケ原の後に合戦スケジュールをブチ壊されてブチ切れた内野聖陽じゃなくて家康にヒステリーを起こされて散々に打ち壊されてしまいました。
なので、現在見られる上田城は当時のものではなく後に城主となった仙石氏が築いたもので、真田時代の上田城とは全く別の城郭といえます。
真田時代の上田城の痕跡
もっとも、縄張りや石垣等は真田時代のものを踏襲しているものもあると思われますので、真田の面影もある程度は現存しているのでしょう。
石垣は、真田時代の石垣に仙石氏が積み足したのではないかと推測される部分も多く、見ていると面白いです(※下の画像はNHKのブラタモリでも放送されていたらしい・・・(自宅にテレビないので見てません)真田と仙石時代の石垣の境界と考えられる部分)。
他にも、城外への抜け穴があったとされる城内の真田井戸が真田の痕跡を今に伝える遺物として有名ですが・・・
残念ながら、上田城のシンボル的な存在である大手門の城門は仙石氏時代の城門を復元したものらしいので、真田時代の城門はこのような形ではなかったのかもしれません。
ただ、大手門で唯一真田時代のものとして残されているものがあります。
大手門の右側に鎮座する巨石「真田石」です。
城門付近の石垣の目立つところに巨石を組み込むのは城主の権威(その財力や動員できる労働力(兵力)の大きさ)を示すことで抑止力を高めるのが目的とされていて、上田城に限らず全国の城郭で見られるものです。
端的に言うと
「俺はこんなデカい岩を山から切り出してここまで運んで来たんだぞ、どーだ凄いだろ、こんなチョーデカい岩を石垣にできるような財力と兵力を持ってる俺様に攻め込んで来たらひどい目に遭うんだからな、だから攻めて来たりすんじゃねーぞ」
と、言いたいわけです。
ところで、この上田城の真田石。
一説には、昌幸の嫡男信之が松代に転封させられた際に持っていこうとしたところ、あまりの大きさに1ミリも動かすことができなかったとも言われているそうです。
もし仮にそれが事実だったとするならば、現在積まれている大手門の石垣はおおむね仙石氏時代のものであるものの、この真田石だけは昌幸が築城した当時のままここに置かれているということになるでしょう。
なんともロマンあふれる伝承です。
ちなみにこの真田石。正面から見ると巨大ですが、近づいて横から見てみると・・・
実際はチョー薄っぺらいです。
横から見るとご覧のとおり後ろはスカスカ。
上の方の厚みはたぶん10cmもないんじゃないでしょうか?
表裏比興の者と言われた真田昌幸がハッタリをかますために置いたのか?
それとも財政難の仙石忠政がケチって置いたのか?
その真相は定かではありませんが、ロマンは膨らむばかりです。
上田城跡へのアクセス
上田城は上田電鉄の上田駅から徒歩圏内にあります。浅間山系など上田・小諸周辺の山に登った後に時間がある場合は上田城まで足を延ばしてみるのも良いのではないかと思います。
なお、上田駅までのアクセス方法はこちらのページを参考にしてください。
▶ 佐久平・小諸・上田駅にバスでアクセスする方法※東京・新宿発着
▶ 佐久平・小諸・上田駅にバスでアクセスする方法※大阪・京都発着
ちなみに、上田駅から上田城跡までの道順はこんな感じです。